「船長なのに船酔い!?」勝海舟の人生から学ぶ”失敗”との向き合い方
子どもに苦手なことがあると、親としては心配になるもの。でも、歴史に名を残した偉人たちも、決して順風満帆だったわけではありません。
船長でありながら船酔いで動けなかった勝海舟。それでも日本の未来を切り開けた理由とは? 勝海舟の”詰んだ”人生から、子どもに伝えたいメッセージをご紹介します。
※本記事は本郷和人監修、 小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)より一部抜粋、編集したものです。
勝海舟のプロフィール
別名:勝麟太郎、勝義邦
経歴:オランダ人から航海術を学び、咸臨丸の船長として太平洋横断を実現。のちに江戸城無血開城を成功させ、明治政府でも活躍した。
時代:幕末
生没年:1823年~1899年
出身地:東京都
肩書き:幕臣、政治家
船長なのに船酔いでヘロヘロになる!
勝海舟は貧乏な家に生まれましたが、とても優秀な子どもでした。父親は働くのが大嫌いで、ケンカや女遊びに明け暮れた人でしたが、そんな父を見て育った海舟は剣術修行や勉強にはげみました。
剣術は師匠の代わりに教えられるほどの腕前だったと言われます。また同時に、西洋の兵学も学びました。勉強にかける熱意は並々ならぬもので、手に入りにくいオランダの書物を読むために、本をもっている人の家に半年通い続けて書き写すほど。ものすごいガッツの持ち主でした。
海舟が30歳をすぎたころのこと。日本に黒船が来航する大事件が起きます。幕府は海からの攻撃にどう備えるべきか、幅広い意見を募集しました。
そこで海舟はすかさず「日本の軍事は時代遅れ! 優秀な人材を育てて軍艦も作るべきだ!」と意見書を出しました。
それが老中(*江戸幕府で政務をとりしきる最高責任者)の目にとまり、長崎でオランダ人から直接西洋の航海術訓練を受けるチャンスを手に入れた海舟は、「海軍のことなら日本一!」と言えるほどの知識と技術を身につけたのです。
そして日米修好通商条約が結ばれ、日本からアメリカに使節が送られることになったとき、海舟は軍艦「咸臨丸」の船長として海を渡ることになりました。
「海の男としてのキャリアスタートだぜ!」と旅立った海舟。しかし彼には持ち前のガッツだけでは解決できない、致命的な問題がありました。
なんと、出航早々にひどい船酔いに苦しみ、船長としてろくに働けなかったのです。
広い視野と国を思う情熱が、坂本龍馬を育てる!
名前は「海」に「舟」と書くのに、海の上ではまったくの役立たずだった海舟。一応弁護しておくと、行きは海が荒れ、船に乗った日本人のほとんどが船酔いしたそうです。それに、海舟は伝染病にかかっていて、そのせいもあって寝こんでいたのかもしれません。
しかし、同じ船に乗っていた福沢諭吉が「あいつは船酔いで部屋から出てこなかった。オレはなんともなかったけどね!」と日記に書いたので、こんな不名誉な話が残ってしまったのでした。ちなみに、ふたりは仲が悪かったそうです……。
咸臨丸は同乗していたアメリカ海軍のおかげで無事アメリカに着き、海舟はアメリカの民主主義や身分制度など、社会のあり方に衝撃を受けます。
帰国後は軍艦奉行になり海軍士官を育てた海舟。その中には、あの坂本龍馬もいました。
最初、龍馬は海舟を斬るつもりでしたが、広い世界を知る海舟が真剣に開国後の日本について話す様子に心を奪われ、「日本第一の人物」と尊敬するようになり、弟子になったと言われています。
海舟の功績でもうひとつ有名なのが、江戸城無血開城です。海舟が西郷隆盛と交渉を重ねたことで、戦わずして幕府から新政府に江戸城が明け渡されました。
これにより、江戸のまちや多くの命が守られました。海舟に船乗りの才能はありませんでしたが、龍馬を心酔させるほどの情熱と、隆盛を納得させる交渉力で、日本の未来を大きく変える人物となりました。
本郷和人監修、小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)
歴史上のヒーローたちにも、詰んだ瞬間があった! うっかりミスや裏切り、やらかしやちょっとした油断で大ピンチにおちいった偉人たち。その姿は想像以上に人間くさくて、おもわず笑っちゃう!
本書では、日本史の有名人たちが直面した「人生最大の詰んだ瞬間」と、そこからの「大逆転劇」に注目。コミカルなイラストが満載で、歴史がニガテな子でもスイスイ読めます。偉人たちの意外な一面を知れる一冊。
