「なにもかもがイヤになり、海に身を投げる」絶望から立ち上がった西郷隆盛
子どもが大きな失敗をしたり、希望を失って落ち込んだりすると、親は「このまま立ち直れなかったらどうしよう」と心配になります。
でも、歴史に名を残した偉人にも、「もう終わりだ」と絶望した瞬間がありました。西郷隆盛は、大切な人を失い、自ら命を絶とうとするほど追い詰められます。それでも人生はそこで終わりませんでした。
西郷隆盛の”詰んだ”人生から、子どもがピンチに陥ったとき「今はつらくても、未来は変えられる」というメッセージを伝えるヒントをお伝えします。
※本記事は本郷和人監修、 小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)より一部抜粋、編集したものです。
西郷隆盛のプロフィール
別名:吉之助、菊池源吾など
経歴:倒幕をリードして明治維新を成しとげた立役者。維新後は明治政府から離れて故郷
鹿児島で私塾を開き、後進の育成に力を注いだ。
時代:幕末~明治時代初期
生没年:1827年~1877年
出身地:鹿児島県
肩書き:薩摩藩士、政治家
なにもかもがイヤになり、海に身を投げる
「上野の西郷さん」と親しまれる銅像から想像する西郷隆盛は、おおらかで「細かいことは気にしません!」という豪快な人物に見えます。
実際に隆盛は人望もあって器が大きい人でしたが、その一方で精神的に追い詰められやすい、ガラスのハートの持ち主でもありました。
薩摩藩( 鹿児島県)の下級藩士の家に生まれた隆盛は、兄弟と1枚の布団を奪い合うような貧しい少年時代をすごします。
そんな生活が劇的に変わったのは28歳のころ。幕末の名君として知られる、藩主・島津斉彬の庭方役(にわかたやく)に抜擢されたのです。庭方役とは、秘書のような役目です。
隆盛は自分を見出してそばに置いてくれる斉彬を、神のように尊敬しました。その思いは強烈で、跡継ぎにめぐまれない斉彬のために「私は一生女の人とつき合いませんから、斉彬さまに男の子をさずけてください!」と祈願したほどでした。
当時、斉彬は一橋慶喜を次の将軍にしようとする「一橋派」の一員で、隆盛もそのために力を尽くしていました。しかしその目的はかなわなかったうえに、斉彬が急死してしまいます。
不運は続き、一橋派に対する江戸幕府の弾圧「安政の大獄」がはじまり、重要人物をかくまっていた隆盛は追われる身になります。しかし、味方であるはずの薩摩は、幕府を恐れて助けてくれません。
すでに斉彬の死で絶望していた隆盛は、とうとうなにもかもがイヤになり「死んでしまおう」と海に身を投げてしまいました。
南の島で生まれ変わり、明治を切りひらく!
本気で死のうとした隆盛でしたが、結局死に切れないまま助け出されてしまいます。薩摩藩はあつかいにこまり、隆盛が死んだことにして、「菊池源吾」という偽名をあたえ、奄美大島に流すことにしました。
文化の異なる南の島に、隆盛は当初ぜんぜんなじめませんでした。島民とまったく打ちとけられず、奇声をあげながらずっと木刀をふりまわしていたため、島民からは「フリムン(狂人)だ……ヤバいのが来た」と避けられていたそうです。
そんな隆盛もくらしに慣れるにつれ、村の子どもたちに読み書きやそろばんを教えたり、趣味の狩猟を楽しんだりと、自由でのどかな島ぐらしを満喫するようになっていきました。
そして愛加那という女性と結婚し、ふたりの子どもにもめぐまれたのです。島でのくらしはわずか3年ほどでしたが、深く傷ついていた隆盛の心を癒やすには十分な時間でした。
こうしてリフレッシュした隆盛は見事復活! 再び立ちあがった隆盛は、薩摩藩の代表として長州藩と「薩長同盟」結ぶと、旧幕府軍と戦って勝利しました。そして日本を明治という新しい時代へみちびいたのです。
「敬天愛人」。これは隆盛の座右の銘で「自然や道理など、人間を超えた大きなものに対して正直に生き、すべての人を愛する」という意味があります。
島でのおだやかな生活と、人々とのふれ合いの中で生まれたと言われるこの言葉には、おおらかでだれからも愛された隆盛の人柄がそのまま表れています。
本郷和人監修、小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)
歴史上のヒーローたちにも、詰んだ瞬間があった! うっかりミスや裏切り、やらかしやちょっとした油断で大ピンチにおちいった偉人たち。その姿は想像以上に人間くさくて、おもわず笑っちゃう!
本書では、日本史の有名人たちが直面した「人生最大の詰んだ瞬間」と、そこからの「大逆転劇」に注目。コミカルなイラストが満載で、歴史がニガテな子でもスイスイ読めます。偉人たちの意外な一面を知れる一冊。
































