「メンタルがズタボロになって強制帰国」遠回りして才能を見つけた夏目漱石
「この子は何に向いているんだろう」「好きなことが見つからないまま大人になったら……」。そんな不安を抱く親御さんも少なくありません。
でも、『吾輩は猫である』の作者・夏目漱石も、若いころは仕事に手応えを感じられず、留学先では心が限界を迎えて帰国するほど苦しみました。それでも、自分に合った場所と出会ったことで才能が大きく花開きます。
漱石の人生は、「人生は遠回りしても大丈夫」と教えてくれます。その理由とは?
※本記事は本郷和人監修、 小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)より一部抜粋、編集したものです。
夏目漱石のプロフィール
本名:夏目金之助
経歴:イギリスに留学後、東京帝国大学で英文学を教える。小説『吾輩は猫である』で小説家デビューし、数々のヒット作を発表した文豪。
時代:明治時代~大正時代
生没年:1867年~1916年
出身地:東京都
肩書き:小説家、英文学者
メンタルがズタボロになって強制帰国!
『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』といった大ベストセラーで知られる文豪の夏目漱石は、小説家になるまでなかなか人生がうまくいかず、生まれたからには何かしたいけど、何をしていいかわからない日々をすごしていました。
漱石の心がそんなふうに空っぽだったのは、生まれてすぐに養子に出され、愛情を受けずに育ったことも関係しているかもしれません。
それでも勉強はよくできました。とくに英語が得意だったので帝国大学(現・東京大学)に進み、英文学を学びます。
しかし、手ごたえは感じられませんでした。そのまま卒業してなりゆきで教師になりますが、やはり同じ。仕事は好きになれないし、自分に向いているとも思えません。
国からイギリス留学を命じられたのはそんなときのことでした。「留学したら何か変わるかもしれない!」と期待を抱いてイギリスに渡った漱石は熱心に学びます。
しかし、うつうつとした気持ちは晴れるどころか、もっとひどくなっていきました。国からもらえる資金が十分ではなく、貧乏生活を強いられたことも漱石の心をこわしていきました。
とうとう「イギリスで発狂した!」とウワサが立ち、帰国することになった漱石は、東京帝国大学で英文学講師をすることに。
しかし、前任者が小泉八雲( ※ギリシャ生まれの作家で、本名はラフカディオ・ハーン。「雪女」や「耳なし芳一」などを収録した『怪談』が有名)という人気講師だったのが不運でした。
学生を夢中にさせる八雲に比べて漱石の講義はかた苦しく、学生から不平不満が噴出したのです。漱石の心はさらに病んでしまいました。
友人のひと言で小説家として大成功!
やることなすことうまくいかず、心がボロボロになった漱石を救ったのは、友人で俳人の高浜虚子でした。文芸誌の編集をしていた虚子は、落ちこむ漱石を見かねて「気晴らしに小説でも書いてみたら?」とすすめてくれたのです。
そうして生まれたのが、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という書き出しからはじまる小説『吾輩は猫である』でした。主人公は漱石が家で飼っていた猫がモデル。
飼い主一家の日常を猫が観察して語る猫目線の斬新な小説は、雑誌で連載がはじまってすぐに大ヒット!
『吾輩は猫である』の連載は予定よりも長く続き、翌年には自分が愛媛で教師をしていた経験をもとに書いた『坊っちゃん』も発表しました。
「小説家かならやっていける!」と、生まれて初めて手ごたえを感じた漱石は、40歳で教職をやめ、小説家として食べていく人生をスタートしました。
教師としては微妙だった漱石ですが、小説家としては「先生、先生!」と慕われ、漱石の家には芥川龍之介や内田百閒など、小説家をめざす若者たちが集まりました。
その後もヒット作を連発した漱石でしたが、43歳のときに胃潰瘍で生死をさまようほどの状態になります。
また、アイスクリームやようかんなどの甘いものが大好きだったため、糖尿病にも悩まされましたが、病気とたたかいながらも書くことだけは絶対にやめませんでした。
書くことで自分を見つけた漱石。漱石が残した数多くの傑作は、今も多くの人に読み継がれています。
本郷和人監修、小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)
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