「ママにもっとそばにいてほしかった」娘から大人になって告げられ…料理研究家・藤野真紀子さんが今も悔やむこと

藤野真紀子,吉澤恵理

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親として「これだけ愛情を注いできた」と思っていても、その記憶が子どもの側と同じとは限りません。「もっとママにそばにいてほしかった」。大人になった娘からそう告げられたというのは、料理研究家の藤野真紀子さんです。夫の海外赴任に伴い、2人の娘とともにアメリカやフランスで暮らした藤野さん。帰国後は料理研究家として仕事に打ち込む一方、娘たちは環境の変化や学校生活のなかで、それぞれに悩みを抱えていたといいます。

海外生活、学校選び、仕事と子育ての両立を振り返りながら、藤野さんに親子のすれ違いについて聞きました。(取材・文/吉澤恵理)

「子どもはどこでもすぐ慣れる」と言われたけれど

――娘さんたちは、幼い頃にアメリカやフランスなど海外での生活も経験されたそうですね。

藤野真紀子さん(以下、藤野):そうなんです。フランスへ行って、日本へ帰ってきて、またアメリカへ行くということがありました。

当時はよく、「子どもは順応性があるから、どこへ行ってもすぐ慣れるわよ。大人のほうが大変よ」と言われました。でも、すべての子どもがそうではないと感じました。子どもって、とてもナイーブで繊細です。それなのに、まだ自分の気持ちをうまく言葉にできない。

もちろん、何でも口に出せる子もいるでしょう。でも、言わないまま、いろいろなストレスを自分の中にため込んでしまう子もいると思います。海外へ行けば、言葉も違う、住む場所も違う、学校の文化も違います。大人が思っている以上に、子どもなりにたくさんのものを背負っていたのだと思います。

当時、娘2人は、まだ小さくて、母親を必要としている時期でした。小さな子って、ママの手を握ったり、スカートを引っ張ったりしますよね。そこから少しずつ成長して、いつか自分からその手を離していく。振り返れば、まだ「手を握ってあげなければいけない時期」だったのだと思います。

日本人学校が合わなかった娘が、フランスの現地校で変わった

――海外での学校生活でも苦労があったのでしょうか。

藤野:ありましたね。フランスでは最初、日本人学校へ通わせました。親としては、言葉も十分わからないのだから、日本語で授業を受けられる学校のほうが楽だろうと考えました。

ところが、ひとりは日本人学校にあまり馴染めなかったんです。理由は一つではありません。先生との相性もあったと思いますし、学校全体の雰囲気も本人には合わなかったのかもしれません。そこで思い切って、フランスの現地校へ移しました。

――フランス語で授業を受けるということになりますか?

藤野:そうです。日本語はありません。普通に考えれば、そちらのほうが大変そうでしょう? でも、現地校に行ったら、すごくうまくいったんです。

そこで出会った先生がとても素晴らしい方でした。娘を見ると、言葉だけではなく全身で「よく来たね」と迎え入れてくれるような先生だったんです。教師として生徒に接するというより、一人の人間として「この子を丸ごと受け入れる」という感じでした。

学校にもいろいろな国籍の子どもがいて、違うことが当たり前という雰囲気があったんですね。娘には、そういう環境のほうが合っていたのだと思います。

「日本語の学校のほうが楽」は、親の思い込みだった

――親が良いと思う環境と、子どもに合う環境は違うこともあるのですね。

藤野:本当にそうなんです。私は「日本語が通じるほうが楽に決まっている」と思っていました。でも、それは親の勝手な考えだったんですね。

子どもにとっては、何語で授業を受けるかだけが問題ではなかった。先生との相性もあるし、学校の空気もあるし、その国の文化がその子に合うかどうかもある。

実際、ひとりは日本人学校でうまくいっていました。ひとりが大丈夫だったから、もう一方も大丈夫ということでもないんです。子どもが2人いれば、それぞれに違う。きっと、3人いれば、3人三様なんだと思います。

帰国後、日本の学校に感じた「窮屈さ」

その後、日本へ帰国した藤野さん一家。海外の学校文化に馴染んでいた娘さんにとって、日本の学校生活には別の難しさもあったといいます。

――日本に戻ってからは、どうでしたか?

藤野:フランスやアメリカでは、子どもたちが比較的自由なんです。地面に座ったり、みんなが同じことをしなくてもいい。でも当時の日本の学校では、「手は膝の上」「姿勢をきちんとする」「みんなと同じ行動をする」ということがとても大切にされていました。

もちろん、それが悪いという話ではありません。ただ、海外の学校の空気に馴染んでいた娘には、少し窮屈だったのだと思います。それで再び、日本にあるフランス系の学校へ移りました。すると、やはりそちらではうまくいった。

その経験を通して、私は「その子に合う場所って、本当にあるんだな」と思いました。親はどうしても、子どもにとって楽な道、苦労しない方をと考えます。それも全部、子どもを心配するからですよね。

でも、親が考える「安心」と、子ども自身が感じる「居心地のよさ」は違うことがあると気づきました。そこは、子どもの様子をよく見なければいけないのだと思います。

専業主婦だった私が、初めて「仕事」に夢中になった

――そうした娘さんたちの環境の変化と重なるように、藤野さん自身の生活にも変化があったのですね。

藤野:私はもともと、ずっと専業主婦だったんです。毎日のご飯を作ることも、おやつを作ることも大好きでした。子どもの誕生日には、「今年はどんなふうに誕生パーティーにしよう」と考えて、パーティーの演出に一生懸命になる。私にとって家庭のことは仕事でもあり、趣味でもあり、楽しみでもありました。家族にほとんどすべてのエネルギーを注いでいたんです。

それが、料理研究家という仕事を始めたことで変わりました。撮影をしたり、料理を教えたり、仕事の世界がどんどん広がっていく。それまで「誰かの妻」「誰かのお母さん」だった私が、「藤野真紀子」という一人の人間として社会から認めてもらえる。それが、ものすごく面白かったんですね。

仕事もどんどん来るようになりました。そして私は、夢中になると一直線なんです。気がつけば、それまで家族だけに向いていたエネルギーが、仕事にも向かうようになっていました。

「ママの存在がないみたいだった」

――娘さんたちは、その変化をどのように感じていたのでしょうか。

藤野:ずっと後、娘たちが大学生になった頃言われました。「ママにもっとそばにいてほしかった」「ママはいつも自分勝手だった」。そんなふうに。

家族からすれば、それまで自分たちに向いていた母親のエネルギーが、急に仕事にも向かうようになった。主人や子どもたちからすると、「家にママがいないみたい」というような、家庭の中にぽっかり穴があいた感覚だったのかもしれません。

私はもちろん、子どもへの愛情がなくなったなんて、一度も思っていませんでした。でも、「私はずっとあなたたちを一番大切に思っていた」と私が思うことと、子ども自身がそう感じていたかどうかは別なんですよね。そこに気づくまで、ずいぶん時間がかかりました。

「おばあちゃんがいるから大丈夫」と思ったことも落とし穴だった

――お母様と同居されていた時期もあったそうですね。

藤野:そうなんです。アメリカから帰国してしばらく母と同居しました。母は本当に孫をかわいがってくれました。ご飯も作ってくれるし、アイロンもかけてくれる。翌日の子どもの支度もしてくれる。それで私は、「おばあちゃんがいるから大丈夫」と安心してしまったんですね。

撮影が「6時に終わるから、ご飯までには帰るね」と言っていたのに、仕事が延びて10時になることもある。仕事ですから、延びてしまうこと自体は仕方がない場合もあります。でも、子どもからすれば約束は約束です。

そして後から娘たちに言われて気づいたのですが、子どもにとって、おばあちゃんとお母さんは同じではないんですよね。どんなにかわいがってくれる祖母がいても、「だからママがいなくても大丈夫」とはならなかった。私はそこを勘違いしていました。

子どもは、その場では何も言わないことがある

――当時、娘さんから直接「寂しい」と言われることはなかったのですか。

藤野:あまりなかったと思います。娘たちは、「ママっていつも約束を破るよね」「ママって、ホントに自分勝手にしゃべるんだよね」なんて話していたみたいですが、我慢してくれていたんですね。

そして大学生くらいになって、自分の気持ちをきちんと言葉にできる年齢になった頃、ようやく私にぶつけてきました。「寂しかった」「もっとそばにいてほしかった」「ママがいない子ども時代だった」と言われました。

私は最初、ピンとこなかったんです。自分なりに、愛情を注いでいたつもりになっていたんですね…。熱を出せば心配して病院を探したこともある。ご飯もおやつも作った。学校のことも一生懸命考えた。

だから私は、「あなたが小さい時、こんなこともしたでしょう」「ママはちゃんとやっていたでしょう」と言ってしまう。すると娘は、「でも私はそう感じなかった」と言う。完全な水掛け論ですよね。

「愛した」と「愛されたと感じた」は同じではなかった

――そのやり取りを経て、何を感じましたか。

藤野:私は愛情をかけたと思っていても、娘が「足りなかった」と感じている。だったら、娘には伝わっていなかったということなんですよね。

親は「これだけしてあげた」と思いがちです。でも愛情って、こちらがどれだけ与えたかだけではなくて、相手がどう受け取ったかということもある。そこは私が間違えていたと思います。

そして仕事についても、今振り返れば、家庭と仕事は、状況でバランスを取ればよかったのだと思っています。必要に応じて、仕事を減らす事もできたのに…と思います。でも当時の私は、仕事が面白くて仕方がなかったし、断ることも苦手だったから忙しくなるばかりでした。

だから、「今日は仕事より、この子と一緒にいる時間を取ろう」と判断することができなかった。それは今でも後悔しています。

親子喧嘩の最後に、焼きたてのお菓子を食べた

――大人になった娘さんとは、当時のことを話したことはありますか?

藤野:何度も話しましたね。もちろん喧嘩にもなります。「私はこうしてあげたでしょう」「でもママはいなかったじゃない」。お互い自分の側から見た記憶がありますから、なかなか一致しません。

そして延々と言い合っていると、もうお互い疲れて、お腹もすいてくる(笑)。そんな時、気持ちが通じ合えたきっかけは、私が焼いたマフィンでした。娘たちが小さな頃からよく作ったマフィンを焼いて、「食べる?」と言ったら食べてくれました。

温かくて甘いものを口にすると、さっきまでギスギスしていた空気が少しずつ和らいでいく。不思議なんですよね。でも、そのお菓子の中には、小さかった頃の記憶も入っているのだと思います。私が専業主婦で、子どもたちを見ていた頃に何度も作った味。子どもたちにとっては、ただ「おいしい」というだけではなく、自分が母親から愛されていた記憶と結びついた味なのかもしれません。

夏休みに「たった一つの思い出」でもいい

――今、子育てをしている親に伝えたいことはありますか。

藤野:今のお母さんたちは、仕事も家事も育児も本当に忙しいですよね。だから四六時中、子どものことだけを考えているなんて無理です。私自身も、仕事に全力で向き合うためには、その瞬間は仕事だけに集中しなければできないこともありました。だから、「ずっと子どものそばにいなさい」という話ではないんです。

ただ、子どもと共有する思い出を作ってほしい。大げさなものでなくていいと思います。夏休みなら一つでもいい。一緒に何かを作ったとか、出かけたとか、同じものを食べて笑ったとか。

そういう記憶は、その時には何でもないことのように思えても、10年、15年たった時に、親子をつないでくれることがあるんです。親子がぶつかった時に、「そういえば、あんなことがあったね」と同じ記憶に戻れる。それだけで少し歩み寄れることがあります。

それでも、親子は何度でも話し直せる

藤野さんには、「もう少し家にいればよかった」「もっと娘の話に耳を傾ければよかった」という後悔が今もあるといいます。一方で、当時の自分も、その時なりに子どもを思い、精いっぱい選択をしていたと振り返ります。

藤野:親だって自信をなくします。「ああすればよかった」「どうして気づかなかったんだろう」と思うことはたくさんあります。でも、愛情を注いできたことは事実なんです。ただ、子どもには子どもの記憶がある。親には親の記憶がある。それが完全に一致しないこともあるんですよね。

大切なのは、子どもから「寂しかった」と言われた時に、「そんなはずはない」と終わらせないことなのだと思います。「そうだったんだね」と聞く。私もそれがなかなかできなかったから、何度も喧嘩しましたけれど(笑)。

でも親子ですから。いろいろなことがあっても、どこかに共有してきた時間や記憶が残っている。そのつながりを信じながら、何度でも話し直していけばいいのではないでしょうか。

今では娘たちも成長し、それぞれの仕事や家庭を持っています。親から子へ一方的に手を差し伸べていた頃から年月が流れ、最近は逆に娘たちから「ママ、大丈夫?」「疲れていない?」と気遣われることも増えたという藤野さん。

親子関係は、一度つまずいたら終わりではありません。幼い日に一緒に食べたお菓子の味のように、心の奥に残った温かな記憶が、何年もたってから親子をもう一度近づけてくれることもあるのです。