「一生懸命おもてなししたのに大目玉!?」明智光秀、本能寺の変直前の知られざる失敗
どれだけ頑張っても認めてもらえなかったり、理不尽な扱いを受けたりすることは、人生の中で誰にでもあります。
明智光秀も、主君・織田信長に仕え、懸命に働きながら苦しい立場に追い込まれた一人でした。そんな経験の先に起きた「本能寺の変」。
光秀はなぜ、信長を討つという大胆な行動に出たのでしょうか。わずか11日で終わった天下とともに、教科書だけではわからない明智光秀の意外な素顔を紹介します。
※本記事は本郷和人監修、 小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)より一部抜粋、編集したものです。
明智光秀のプロフィール
別名:惟任光秀、三日天下(「本能寺の変」後、わずか11日で天下人の座を失ったことから)
経歴:織田信長の側近として活躍した武将。「本能寺の変」では一転、主君・信長を襲撃。すぐに豊臣秀吉に敗れて短い天下は終わる。
時代:戦国時代〜安土桃山時代
生没年:?〜1582年
出身地:岐阜県
肩書き:戦国武将
おもてなし大失敗!大目玉をくらう!
明智光秀は織田信長に仕えるまで何をしていたのかあまりわかっていませんが、かなりのキレ者だったようです。
学問にすぐれ、外交の才能もありました。また戦術にもくわしく、その几帳面で計画的な性格を買われ、とんとん拍子で信長の右腕になりました。
近江(滋賀県)に領地をもらって坂本城という自分のお城を建て、さらに丹波(兵庫県)も手に入れて立派な大名になりました。
ところが1582年、順風満帆だった光秀に大ピンチがおとずれます。信長が徳川家康をまねいて盛大なおもてなしをすることになり、その世話役を光秀が任されました。
光秀ははりきってごちそうを用意し、おもてなしをしましたが、なんとそこで腐った鯛を出してしまったのです。もちろん信長は大激怒!
この話、実際はのちの時代の作り話と言われているのですが、光秀がこのころ信長に冷たく当たられていたのはどうやら本当のようです。
日本滞在中だった宣教師のルイス・フロイスは、信長が光秀をぶちのめすところを目撃し、記録を残しています。
結局、「もうお前は戦場に行け!」と命じられ、おもてなし役はクビになってしまいました。信長の気持ちひとつでひどい目にあわされた光秀。
そもそも破天荒な信長と、緻密な光秀とでは相性があまり良くなかったのかもしれません。
光秀がパワハラ全開の信長に不満を募らせていたとも言われています。そしてかの有名な「本能寺の変」が起きるのです。
「そうだ、信長を討とう!」油断する主君を襲撃!
おもてなし役をクビにされた光秀は「中国地方で毛利氏と戦っている秀吉を手伝え」と命じられます。出陣の準備を整え、夜明け前の暗いうちに出発しました。
ところがその道中、光秀は突然行き先を変更します。「敵は本能寺にあり!」と本当に言ったかどうかはわかりませんが、急に京都の本能寺をめざしたのです。
信長は、本能寺に少しの家臣だけをつれて就寝中でした。光秀の奇襲を知った信長は、「是非に及ばず(あの光秀に襲撃されたなら、しょうがない)」と静かに覚悟を決めたと言われます。
信長は燃えさかる本能寺の中で自害したとされますが、遺体は見つかっていません。
さて、信長のパワハラに耐えかねてか、はたまた自分が天下人になる野望があったのか、理ははっきりしていませんが、大胆な作戦でひと晩にして主役の座を奪った光秀。
つき合いのあった武将たちに「これからはオレの時代になるから、応援よろしく!」といった調子で声をかけ、天皇にも面会して献金。「今後は私にお任せあれ!」と気分はすっかり天下人。
しかし、この栄光は長く続きませんでした。中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は信長の死を知ると、超ハイスピードで京都に引き返し光秀と戦ったのです(山崎の戦い)。
光秀があてにしていた仲間は集まらず敗北。しかも逃亡中に農民に殺されるという残念な最後でした。光秀の天下はたった11日間。
それでもあの天下無敵の信長をやっつけて天下をとるなんて、だれひとり予想できない大逆転だったのです。
豆知識
明智光秀は城づくりの名手としても知られ、いくつもの築城に関わった。また治水事業も積極的に行ったとされる。
本郷和人監修、小豆だるまイラスト、 東滋実執筆『日本史の詰んだ人図鑑』(サンクチュアリ出版)
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