「戦争をなくしたい」高校生の心を動かした一枚の写真 平和をつくる仕事を選んだ理由

瀬谷ルミ子
2026.08.20 13:54 2026.09.04 11:50
難民キャンプで、病気でたおれたルワンダの母親と泣きさけぶ子ども。ルワンダではかつて民族対立による虐殺が起きた。(1994年)
難民キャンプで、病気でたおれたルワンダの母親と泣きさけぶ子ども。ルワンダではかつて民族対立による虐殺が起きた。(1994年)
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子どもが将来どんな仕事に就くのか、その「きっかけ」は親が思ってもみないところにあるかもしれません。

世界の紛争地で25年以上、「平和をつくる仕事」に携わってきた瀬谷ルミ子さん。瀬谷さんの夢の原点となったのは高校時代に出会った一枚の新聞写真でした。写真を見た少女の心に、どんな変化が起きたのでしょうか?

※本稿は、瀬谷ルミ子 (著)『ノンフィクション 戦争は終わらない? 武装解除・紛争予防の現場から』(Gakken)より一部抜粋、編集したものです。

とってもやんちゃな子ども時代

紛争地で仕事をしていると、こう聞かれます。
「子どものころから、外国に行ってたの?」

まったくそんなことはありません! 私の家族はみんな、パスポートを作ったことも、日本の外に出たこともありません。

私が生まれ育ったのは、群馬県の山のふもとにある小さな村です。家から一番近い駅やコンビニ、学校まで、歩いて一時間かかります。自然に囲まれていたので、下校のとき先生からこんな声をかけられることもありました。

「学校の近くにクマが出ました。猟師さんがパトロールしています。クマとまちがわれないよう、歌いながら帰りましょう」

家庭用ゲーム機も小学校の高学年になるまで家にありませんでした。だから、身のまわりにあるもので工夫したり、確かめてみたりすることが、私にとっての遊びでした。

例えば、アリの巣の近くに砂糖やいろんな大きさのえさを置いて、何をどんなふうに運ぶか何時間も観察しました。生まれたての子ネコを拾ったときは、自分でほ乳びんを作って、ミルクをあげました。液体のりの入れ物を改造したのです。

私は育てにくい子どもだっただろうなと思います。なぜなら、とってもやんちゃで、少しひねくれていたからです。走り回ってしょっちゅう転んでけがをするので、両ひざにはいつも大きなかさぶたがありました。

小学一年生のときには六年生の男子とケンカして、あざだらけになったこともありました。家中の電化製品を分解して、家族をこまらせたこともあります(どうやって動いているのか、しくみが知りたかったのです)。

親によく口答えもしていました。さらに、朝起きるのも苦手です。(今日も遅刻が確定だな)

そう思いながら学校までの道のりを歩き、空を見上げて、(この村の外には、どんな世界があるんだろう?)なんて思っていました。

弟がたおれた日

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小学6年生のとき、病院で弟といっしょに。(1989年)

そんな私が小学五年生のとき、私たち家族の生活が大きく変わる出来事がありました。

三歳年下の弟が学校でたおれ、救急車で運ばれたのです。急いで病院に行くと、お医者さんが深刻そうに言いました。

「脳の病気です。助かる見込みは、ほとんどありません」
「そんな……」

びっくりして、本当のことだと思えませんでした。弟が寝かされているベッドに行くと、まわりにたくさんのお医者さんがいました。

そのすきまから見える弟は、頭と体のあちこちにたくさんのチューブをつながれています。頭の手術をするため、髪がそられて坊主頭になっていました。

近づいて、弟の名前をよんでみました。ピクリとも動きません。(私は弟とケンカしてばかりだった。もっとやさしくしてあげればよかった)そう思うと、悲しくて涙が止まらなくなりました。

お母さんは病院に泊まって、入院した弟のお世話をするようになりました。お父さんも夜遅くまで仕事でいません。私は親せきの家に泊まって面倒を見てもらったり、まだ中学生だった姉と家事をしたりしました。

一か月たったある日、ついに弟が目を覚ましました。家族で飛び上がって喜びました。「奇跡だ!」と、お医者さんも目を丸くしていました。

いのちは助かりましたが、病気で傷ついた脳の一部は治りませんでした。そのため、体の左半分が動かなくなっていました。歩くことも、左手を持ち上げることもできませんでした。

そんなときも、弟はへこたれませんでした。
「心配しなくていいよ。ぼく、歩く練習をいっぱいがんばるから」

そういって、毎日歯を食いしばって、体を動かす練習をがんばりました。そして一年後の退院する時期には、つえを使わずに歩けるようになったのです。

お母さんは、弟の看病をしながらいくつも仕事をしていました。お休みの日はほとんどありません。家にお金があまりないので、私たちを育てるためにがんばって働いていました。

「新しいうわばきがほしい。でも、お金がなくなるのが心配だな」と思って、きつくなったうわばきを何か月もはいてすごしたこともありました。

まわりの同級生が不自由なく暮らしているように感じていました。(私は、得意なことも、特別な才能も、何もない。みんなと同じことをしても、かなわない。世の中って、不公平だなあ)

でも同時に、こんなことも考えました。(だれもやっていない「何か」を見つけられれば、自分でも役に立てるんじゃないか)その「何か」を見つけるきっかけは、高校生のときにやってきました。

一枚の写真との出会い

1994年の夏。新聞をめくっていた高校三年生の私の目に、ある写真が飛びこんできました。

アフリカのルワンダという小さな国――日本から飛行機で一日かかる場所――で起きた虐殺からのがれ、難民となった親子のすがたでした。

食料も清潔な水も住まいもない難民キャンプで、コレラという感染症にかかり、命がつきようとしているお母さんを、小さな子どもが泣きながら起こそうとしています。

そのお母さんはとても弱っていて、もう助からなそうでした。泣きさけぶわが子をだきよせることもできない。

思わず、手が止まりました。気がついたら、涙が出ていました。でも、悲しいというより、頭の中で熱い怒りの気持ちがマグマのようにぐつぐつしていました。

(なんで? なんでこんなことが起きてるの? おかしいじゃないか)

そのとき、ふと思いました。この親子の状況が、どこか自分とも重なって見えたのです。

当時の日本では、政治家がお金にまつわる悪いことをしたというニュースが続いていました。物の値段も上がっていました。

うちは裕福ではなかったので、自分が大学に行けるのか、家族が生活していけるのか、不安な気持ちで毎日をすごしていました。

(えらい人たちは、結局自分たちのことしか考えない。どうせ私みたいな子どもには、何も変えられない)そんな無力感で、なかばあきらめていました。

(ルワンダの親子も、同じじゃないか? 自分たちが望んで始めたわけでもない戦争に巻きこまれて、命を失おうとしている)でも、ルワンダの親子と自分の間には、決定的なちがいがありました。

私は日本にいます。お金の心配はあっても、奨学金をもらって大学に行く道がある。アルバイトをして学費をかせぐこともできる。努力すれば、命の危険もなく自分の状況を変えられる可能性がある社会に生きています。

でも、あの親子は「助けて」と声を上げても、救ってもらえるかわかりません。まわりに何万人も同じような人たちがたおれているからです。

(私の手の中には、あの親子が持てないものがある。自分の人生を、自由に選ぶ権利だ)

そんなことにも気づかず、世の中に不満ばかりかかえていた自分が、急に恥ずかしくなりました。

(戦争のニュースをながめて「ヒーローでもあらわれないかな」と祈るだけの自分ではだめだ。私が、戦争が起こらない社会をつくれるようになりたい)

そう思ったとき、私はすぐに行動しました。といっても、大したことではありません。その新聞の写真を、はさみで切りぬいたのです。そして、毎日学校に持っていくファイルにとじました。

学校に行くたびに、その写真が目に入りました。見るたびに、胸の中にぽっと火がともるように心が熱くなりました。文句を言うだけで何も変えようとしなかった自分が、社会を変える側になれる、そう思えてきます。

(私にできることは、あの親子のような、紛争地の人たちの役に立てる人間になることだ)

その写真は、私と世界の紛争地をつなぐ「窓」になりました。写真を見るたびに、熱くなったあの気持ちがよみがえってきたのです。

②の画像3

瀬谷ルミ子

平和活動を行うNGOの団体、リアルズの理事長。紛争解決と平和構築の第一人者として25年以上活動し、世界で高く評価される。


瀬谷ルミ子(著)『ノンフィクション 戦争は終わらない? 武装解除・紛争予防の現場から』(Gakken)
中東・アフリカで四半世紀にわたって活動を続ける瀬谷ルミ子さんの半生と活動を紹介する、児童向け読み物。現地の政治家や兵士、傷ついた地元民たちにどのように向き合い、平和を構築していったのか。武装解除、難民の退避支援、そして紛争の予防をどのように実現していくのかがわかる一冊です。
「いのる平和」から「つくる平和」に向かって、戦争を具体的に考え始めるためのノンフィクション。