頼れる親も、ママ友もいなかった…武田久美子さんのアメリカ子育て【前編】
アイドル、女優として活躍した武田久美子さんは、結婚を機にアメリカへ渡りました。娘さんを授かり、2016年の離婚後も帰国することなく、異国の地でシングルマザーとして子育てを続け、現在、その娘さんは医師を志しメディカルスクールで学んでいます。
頼れる家族が近くにいない環境は決して楽ではありませんでしたが、武田さんには一貫して大切にしてきた考え方がありました。武田久美子さんの子育て論について伺いました。(取材・文/吉澤恵理)
「近くに親がいてくれたら」と何度も思った日々
結婚を機に渡米し、アメリカで娘さんを育ててきた武田さん。頼れる家族が近くにいない環境での子育ては、どのようなものだったのでしょうか。
――頼れる家族が近くにいないアメリカでの子育ては、ご苦労も多かったのではないでしょうか。
武田:娘が赤ちゃんだったころは、「近くに親がいてくれたら、どんなに助かっただろう」と何度も思いました。
赤ちゃんの時期は、やはり手が必要ですから、私一人では大変だと感じることもありましたね。
――アメリカでは、ベビーシッターを利用する家庭も多いと聞きます。
武田:私の場合は、基本的には自分で育てたいという思いがありました。
娘がまだ言葉を話すか話さないかくらいのころだけ、週に2回ほどベビーシッターさんに来ていただいていましたが、それも私が買い物へ行くなど、本当に必要なときだけでした。
娘が保育園や学校へ通うようになってからは、今度は「周りとのつながり」をとても大切にしました。他のお母さまたちに助けてもらうこともありました。
「ママ友を作る」のではなく、娘の環境をつくる
日本でも話題になることの多い「ママ友」との関係。アメリカでの武田さんの考え方は、少し違っていたといいます。
――アメリカにも、日本のような「ママ友文化」があるのでしょうか。
武田:私の場合は、「ママ友を作ろう」という感覚とは少し違いました。
友達を作ることが目的ではなく、娘が安心して学校生活を送れる環境をつくることが目的だったんです。
そのために、お母さま方や先生と自然につながっていたいという気持ちのほうが大きかったですね。
アメリカには世界中から人が集まっています。同じアメリカ人でも他州から引っ越してきた方が多く、親や親戚が近くにいる家庭ばかりではありません。
だから、「頼れる人がいない」のは自分だけではないんです。
でも、待っているだけでは誰ともつながれません。学校の行事やボランティアに参加したり、自分から声をかけたりしながら、少しずつ関係を築いていくことは必要だと思いました。
「子どもが心配なら、自分が学校へ入ればいい」
武田さんが実践してきたのは、学校へ足を運ぶことでした。そこで見えてきたものについて伺いました。
――学校のボランティアにも積極的に参加されていたそうですね。
武田:はい。私は学校へよく行っていました。
授業のお手伝いをしたり、教材を片づけたり、美術の授業では筆を洗ったり、本当に小さなボランティアです。
でも、その時間が私にはとても大きかったんです。
子どもが心配なら、「学校は大丈夫かな」と家で考えているより、自分が学校へ入ってみればいいと思ったんです。
そうすると、家では絶対に見られない子どもの姿が見えてきます。
友達とどんなふうに接しているのか、先生の話をどう聞いているのか、困ったときは誰に助けを求めているのか。
親の前では甘えん坊でも、学校ではしっかり者かもしれませんし、その逆もあります。
実際に学校へ入ることで、「うちの子はこんな一面があるんだ」と驚くこともありました。
それに、何度も学校へ足を運んでいると、先生とも自然に信頼関係ができます。
何か問題が起きたときだけ学校へ行くより、普段から顔を合わせているほうが、お互いに話しやすいですよね。
私は、それが一番大きかったと思っています。
――日本ではPTA活動に負担を感じる保護者も少なくありませんが、アドバイスはありますか?
武田:日本のPTAとは単純に比較できないと思いますが、全部を引き受ける必要はないんです。
ほんの少し学校に関わるだけで、子どもの世界はぐっと近くなります。
学校へ行くことは、学校や先生を評価するためではありません。
子どもが一日の大半を過ごす場所を知り、一緒に成長を支えていくためです。
私は、「子どもが心配なら、自分が学校へ入ればいい」と今でも思っています。
子どもを変えようとせず、その子に合った環境を整える
学校でも家庭でも娘さんを見守ってきた武田さん。子育てで最も大切にしてきた考え方について伺いました。
――学校でも家庭でも娘さんを温かく見守ってこられたことが伝わってきました。子育てをするうえで、最も大切にしていた考え方を教えてください。
武田:私は、子どもの性格は半分くらい生まれつきだと思っています。
おとなしい子もいれば、活発な子もいますし、親が理想とする子ども像に無理に合わせようとしても、その子らしさは変えられません。
娘は完全に活発なタイプでした。
だから、「静かにしなさい」と抑え込むのではなく、そのエネルギーを思い切り発散できる環境をつくってあげようと思いました。
休みの日でも一日中家にいることはほとんどなく、公園へ行ったり、外で遊んだり、とにかく体を動かすことを意識していました。
一日に一度は外へ出て、太陽の光を浴びて、思い切り遊んで、疲れて眠る。
それが子どもにとって自然ですし、実は親も楽なんです。
例えば、眠くない子に「早く寝なさい」と言っても眠れるわけがありません。
昼間にしっかり遊び、夜はぐっすり眠る。その生活リズムをつくることは、親子にとって一番無理がない方法だったと思います。
親が子どもを変えようとするのではなく、その子の個性を理解して、その子に合った環境を整えてあげること。
それが、子育てで一番大切にしてきたことかもしれません。
離婚後も「日本へ帰ろう」とは考えなかった
娘さんが10歳のころ、武田さんは離婚を決めます。アメリカの離婚制度は、日本とは異なる面もあるといいます。
――その後、離婚を経験されました。アメリカの離婚制度は、日本とは違う面もあるそうですね。
武田:娘が10歳くらいのころに離婚を決めましたが、成立までには4年ほどかかりました。
アメリカでは離婚手続き中、子どもは母親か父親のどちらか一方だけと暮らすのではなく、両方の家を行き来しながら生活することが一般的です。
その間、娘も私と父親、それぞれの家を行き来していました。
アメリカでは珍しいことではありませんが、子どもにとっては決して楽ではなかったと思います。
ただ、周りにも離婚した家庭は少なくありませんでした。同じような環境で育つ友達も多かったので、娘なりに自然と受け入れていったのではないでしょうか。
――離婚後、日本へ帰ろうとは考えなかったのでしょうか。
武田:離婚が成立したあとも、日本へ帰ることは一度も考えませんでした。
娘はアメリカで生まれ育ち、友達も学校も、人生のすべてがそこにありました。
私が優先すべきなのは、自分の人生を立て直すことではなく、娘をきちんと育て上げることでした。
自分がどこで暮らしたいかではなく、娘が安心して毎日を送れる環境を守ること。
それが親としての役目だと思っていました。
娘さんは、その後アメリカの大学へ進学し、医学の道を志しました。しかし、その道のりは決して順風満帆だったわけではありません。多感な思春期を迎え、親子関係が揺れる時期も経験したといいます。
後編では、武田さんが思春期の娘とどのように向き合い、親子の信頼関係を築きながら医学部進学へと導いたのか、その子育ての哲学についてさらに詳しく伺います。